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長崎と日清、日露戦争  (1)               

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(1)
不偏不党モットー 異彩放った「東洋日の出」

 明治中期の県内では「鎮西日報」は保守、

「長崎新報」(長崎新聞の前身)は改進、

それぞれの政党の主張を代弁する形で

論戦を展開していた。

そこに、一八九九(明治三十二)年に鈴木天眼、

坂井伊之吉の共同経営による

「九州日之出新聞」が創刊。

その後、内紛で「九州日之出新聞」

を辞めた天眼は一九〇二年(明治三十五)に

「東洋日の出新聞」を創刊する。




(2)
 「東洋日の出新聞」は

創刊当初タブロイド判四ページで、

一面は国際ニュース、二面は長崎の行政関係、

三面は事件などの社会ダネや投書、

四面は広告−からなっていた。その後、

間もなくブランケット判

(現在の新聞サイズ)に変更。

不偏不党をモットーに、

当時の新聞の大半が政党の

機関紙的な性格が強かった中で異彩を放った。

 ■戦争報道でしのぎ

 当時の東アジア情勢は、

欧米列強の清国への進出に加え、

宗主国として朝鮮の支配を続ける清国に対し、

朝鮮を大陸進出の

足掛かりとしたい日本との間で

緊張が増していた。一八九四(明治二十七)年に

朝鮮で起きた甲午農民戦争の鎮圧を契機に、

日清戦争(一八九四−九五年)が勃発。

その後の日露戦争(一九〇四−〇五年)

と併せて新聞界に大きな影響を与えた。



(3)
 明治初期の西南戦争までは取材網が

未発達だったほか、県内の新聞も少なく、

戦況の報道も限られた範囲にとどまっていた。

だが、日清戦争以後は「鎮西日報」

「長崎新報」のほか、

「九州日之出新聞」

「東洋日の出新聞」「長崎新聞」

(現在の長崎新聞とは無関係)

などが続々創刊され、

戦争報道でしのぎを削る一方、

日露戦争後のポーツマス

講話条約に対する賛否について、

新聞自らが態度を鮮明にした論陣を張り、

集会なども積極的に展開、世論をリードした。

        西南戦争






(4)
 ■新聞の大きな転機

 日清戦争では、歴史的、

経済的にも清国と深い関係にあった長崎にとって

衝撃は大きかった。それでも国家の危機意識の中、

清国人への石炭売り止め運動などが起き、

当時の在長崎清国領事館は清国人の保護を

米国領事館に託して本国に引き揚げ、

これに続いて在留清国人も長崎を次々と後にした。

開戦後、長崎に残った清国人は二百六十七人に

すぎなかったという。
















(5)
 県内の各新聞は戦線が拡大するに従って従軍記者を

戦地に派遣。画家も同行させ、

戦地のスケッチを掲載した。

身内を戦地に送った留守家族は肉親の安否を気遣い、

新聞に情報を求めた。戦勝のたびに号外も出され、

地方や辺地まで配達される新聞の購読熱をあおった。

それまで、一種のぜいたく品と見なされていた新聞が、

市民に身近なものとして普及する大きな転機となった。





(6)
長崎港に清国北洋艦隊が来襲する恐れがあるとして

警備が強化される一方で、

新聞・雑誌の検閲も始まった。

軍隊に検閲係ができ、

情報が骨抜きになることも多かったが、

勇ましい光景などが強調される記事や

画集が読者の関心を呼び、

同時に新聞の体裁も一新された。


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